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動物をめぐる人びと
 
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動物と人との新たな関係をきずくために
人と動物の関わりについて日本社会の歴史やアジアの状況の中で見つめ、
考えている田村武先生にインタビューしました。

田村武(たむら たけし)さん
みずからの動物体験を元に、人と動物との関わり、とくに自然環境を人工的に再現する「動物園」や、かつて野生にあった動物を人間社会に取り込んできた「ペット動物」や「家畜」と人間との関わりの歴史を、内外でのフィールド調査や文献探査をもとに研究。
論文に『象徴としての「日本犬」』『50年後のヒトとペット』『動物園における夜間開園に関する考察』など。

昔、日本の犬は自然な形で地域の番犬や、猟犬、
セラピードッグになったりしていた


 私の実家は、昔から動物が絶えたことのない家で、多いときは犬2頭、ネコ1匹、アヒル3羽、熱帯魚多数という時期もありました。小学時代は「ドリトル先生」にはまって、全巻読破。そんな経験から、大学で動物と人間との関わりの歴史を研究しはじめたんです。

 たとえば明治以降、欧米の文物や西洋犬がどっと入ってきて、その反動として、日本文化を見直そうという流れのなかで「日本犬」が再発見され、種としての固定も行われていきました。「忠犬ハチ公」も、日本人の「忠義」を象徴する材料として利用されたわけです。もっとも庶民レベルでは犬との付き合いもおおらかでした。犬が現在のようにつながれだしたのは戦後の高度成長期以降です。いまでも田舎に行けば、犬がそのあたりを走り回っていますね。あれが元の日本の犬の姿で、昔はどこかの家でエサをもらっても、それ以外、犬は地域に属していた。そして村の入り口に何匹か構えていて、他所者が来たらワンワン吠えて、ね。

 以前、これは母に聞いた話ですが、向かいの家に住んでいたおじさんがウサギを撃ちにいくとき、その家にも犬がいたのに、なぜかウチの犬を連れていったらしいんです(笑)。そのように、昔は地域で犬の貸し借り、活用が自由に行われていて、それをだれも疑わなかった。日本では、金魚や小鳥みたいに狭い空間に押しとどめなければいけない動物に対しては「飼う」という飼育概念が発達していたんですが、犬とかネコとかは放ったらかしにしていて、地域の番犬になったり、ときには猟犬になったり、子どもと遊ぶペットになったり、おばあさんの相手をするセラピードッグになったりしていたんでしょうね。

身の周りに犬がいて、 それだけで
地域の人々が幸せを感じる世の中に!


 この夏、中国の河北省にある雑技の「故郷」へフィールド調査に行ったのですが、中国では雑技団で芸をする犬がいたり、家族のペットとして飼われていたり、放し飼いの犬があるとき食卓にのぼったりと、犬との関係がとても「立体的」ですね。道路の利用の仕方も、端っこを牛車や自転車が走り、その次をトラクターなど遅い車が走り、真ん中をバスや乗用車などが走ってる。別に白線やセンターラインがなくても、ちゃんと秩序ができていて、「デジタル」に上から役割を決められなくても、各自が自然のバランスを考えて生きる「アナログな力」があるのが中国です。

 日本では、 近年、盲導犬や介助犬やセラピードッグとか、役割を決められないと犬を意識できないという、「デジタルな世界」に入ってきたみたいですが、これはある意味で不健康な姿なんじゃないか、と中国へ行って感じてしまいました。
 たとえばセラピードッグにしても役割や人との関係を狭く固定するのじゃなく、シーズーがおばあさんと暮らしているみたいな、犬が人の周辺をうろうろしているだけで、なぜかしら、心がなごんでくる…。役割を押しつけるのではなくて、犬と言われる動物が身の回りにいて、その犬がいると幸せを感じる。そんな付き合いが受け入れられるのがいいんじゃないかな、と思います。

 とにかく、日本ではちょっと前まで犬が地域に属していたのが、現在は個人に属す時代になり、人と犬、人と人、犬と犬の関係もどこか窮屈になってきました。これからは、個人と地域社会のあり方をとらえ直し、新たな関係をきずいていく必要があります。もうすこししたら、新しい地域社会に属す犬が生まれ、育って、地域全体に対して自然な形でいろんな役割を演じ、やすらぎを与えてくれる、そういう風な世の中が来ればいいな、と考えているんですが、ね。
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