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居ながらにして、犬という、能力的にシカまで 倒せる ”肉食獣“と接触できるのは、稀有なこと。 |
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犬と一緒に、“群れ”として オオカミのような 暮らしをしてみたい 子どものとき、世界の動物文学を読んで、たとえば、アラスカで犬と暮らしている人の話で、ベッドで寝ている人が手を床に垂らすとそこに犬が寝ていて、犬の毛皮をモジョモジョとさわる…。そういうのにあこがれましたね。ペットにはカメやカエルから犬、猫までいるんですが、犬って、同じ空間を共有して暮らす動物の最右翼という気がします。 僕には、もし可能であれば、犬と一緒に、“群れ”としてオオカミのような暮らしをしてみたい、という想いがあるんです。だれの言葉か忘れましたが、「オオカミは犬ではない。しかし、犬はオオカミである」と。オオカミの論理が身近に見えるのが犬の楽しさ、面白さですね。居ながらにして、能力的にシカぐらいまで倒すことのできる肉食獣と接触できるのは、稀有(けう)なことじゃないですか。 犬の群れのなかに人間が入ると、ある意味、群れのアルファ(リーダー)にならなきゃいけませんけど、あるところで、“透明”になることができるわけです。オオカミの群れに受け入れてもらって、野山を飛んで歩いて、無視してもらえるところまでいくのはできないですけどね。 いま、うちには4頭の犬たちがいますが、みんな、近くで拾ったり、どこかから引き取ったりした犬ばかりです。国ごとの犬の飼育頭数や人口比で見れば、先進国といわれる欧米諸国より日本のほうがはるかに状況はましなんですが、それでも“処分”される犬が年間10数万頭いるなかで、自分では犬を“ 購入”して飼うのは、あまり気がすすまないんです。もっと状況がよくなって、“処分”頭数が1万頭ぐらいになったら、自分の好きな犬を購入したいと思いますが…。 人間がはびこりすぎてるとはいえ、 「人間だけ遠慮すべきだ」 というのも、かえって傲慢… 狩りって、僕自身、得意じゃないし、どちらかといえば嫌なほうですが、肉食の犬や鷹と一緒に暮らすとなると、狩りも見てみたくはなりますね。よく「生きるために狩りをする」というのは、実は人間の“後付け”で、「狩り」というのは、それ自体、楽しいことで、悪意のあることじゃありません。狩りをして獲物を捕らえることを楽しいと感じるような遺伝的傾向があるやつじゃないと、生き残ってきていないでしょ。 先日、ある人類学者の講演を聴いていたら、「人間が人間になったのは、肉食ゆえである。肉食ゆえの高カロリーの確保で脳がこれだけ肥大化して、その燃費の悪い肥大化した脳を維持できるようになった」と。 だから、だれにも、どこかで、生き物を追いかけて捕まえたい、というのがある。それがレジャーになっても、倫理的に悪いことではなくて、人間って、そういうものなんだ、というしかない。狩りって、良し悪しをいう対象じゃないんです。 生き物を殺すと、「あ、殺しちゃったな」という苦い思いと、「よし、獲ったぞ」という思いと、「おいしそうだな」という思いが生じるのですが、そのような、必ずしも整理がつかない感情を全部まとめて引き受けることが大事なんです。 犬猫を飼うのもそうで、みんな、動物が何か食べるのを気に入ってるんですが、食べれば、出る。また、一緒に暮らすと楽しいし、死ぬ と悲しいけど、彼らの寿命が10数年と限られているからいいので、これが永遠に死なないと、全然魅力がない。結局、どちらか自分の都合のいいほうだけというわけにはいかない。それを学ぶ、あるいは味わうには、動物と暮らすのがいいと思います。 とにかく、近代化した社会のなかで人間を観察しても、人の死体ってほとんど見ないですが、ホモサピエンスになってから5万年か7万年、その期間の90何%は、死体がごろごろあった。いまでも世界のほとんどの地域ではしょっちゅう死体を見る。生き物はムダに死ぬ からたくさん生まれて、というのがそもそもの生存システムで、だからこれだけ多様な種類の生き物が地球上に繁栄してきた。 たしかに現代は人間があまりにはびこりすぎてる感じもありますが、ほかの動物で、まわりの別 の種類の動物に迷惑をかけるから遠慮して生きてる生き物っていない。「人間だけ遠慮すべきだ」というのも、人間中心主義の裏返しにしかすぎないし、かえって傲慢です。ただ、現実問題として、人間が強くなりすぎてバランスが悪いのもたしか。整合性がとれなくて、モヤモヤしながら、両方の思いを抱えていて、いいのじゃないか、と。そこを無理に片付けようとするのは、僕には、思考が息切れしている感じがするんです。 *この記事は、2002年1月20日発行のものです。 |
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