わたし、子どものころから家に犬がいましたの。家は大阪市内の写真館で前が電車通りなので、よく市電にひかれました。でも、親は子どもに言えないから、「どうしても欲しいという人があって…」と。わたし、怒って、「連れ戻してきて」って。そしたら、うちの若い見習技師さんが、近くの堂島大橋の下から別の子犬を連れてきてくれて、慰められました。しかし戦争が激しくなり、写真館が空襲で焼け、ペットどころではない暮らしでした。
昭和四十年代に結婚して神戸に住んだのですが、そこは犬より猫。おっちゃん(亡きご主人のこと)が結婚しようと言い寄って、「お酒一緒に飲みたいねん」。わたしが「お酒飲む相手なんて誰だっているやない」って言うと、「わしとこへ寄って来るの、猫だけや」。かわいそうやなと思って結婚したんですが、今から思うと、うまい口説き文句やな、と(笑)。
伊丹市に住んでから犬を飼いだして、「マルちゃん」で二代目です。初代のポパイはやんちゃくれでしたが、マルちゃんはおとなしい、深窓の令嬢みたいな子。ここに来てもう二年ぐらいになるかしら。この家は、働いているの、女の人ばかりで、ペットみたいに大事にされてたおっちゃんが死に、みんなしょぼんとしたから、「新しいペット、飼おうよ」と(笑)。
古典文学にも犬や猫が出てきます。例えば『源氏物語』には、柏木衛門督が女三の宮にほれて、彼女のお手許にいる猫を、うまいこと言うて自分のものにする話があります。『枕草子』には、天皇ご寵愛の猫を追いかけて男たちに打たれ、犬島に流された「翁丸」という犬の話があります。翁丸は、その後、よれよれになって帰ってきて、女官たちが「かわいそうに」と涙をこぼす。こんな話が千年も書き伝えられ、みんな喜んで読んでいたのは、日本人って心の奥底は愛情深くて、ずっと昔から犬や猫が大好きだったんでしょうね。
それから江戸時代の俳諧師・小林一茶の句に〈寝た犬に ふはとかぶさる 一葉かな〉というのがありますが、わたし、一茶みたいに、動物に深い愛情をもった人って知らない。それは、人間に絶望したからかも…。
一茶は信州の農家に生まれ、継母に育てられ、十五歳で江戸に出て悲惨な奉公生活を送りました。以後、貧しい俳諧師として、五十過ぎまで水洟すすりながら旅から旅へと渡り暮らし、自分では才能があると自信はもっていても、社会的には認められないままでした。だから、動物しか自分の理解者はいないような気がしてたんでしょうね。
〈雁わやわや おれが噂を いたすかな〉
一茶は、雁が鳴いても、烏が鳴いても、自分に声をかけてくれてると思うのね。そして、人の愛情に飢えている人には、動物たちはちゃんと寄ってきてくれ、優しい気持ちを敏感に察してくれる。きっと、人間の優しさというのは、匂いの強い花みたいに遠くまで匂うから、何も知らない動物でも好きになるのかもしれない、と考えてますけどね。
*この記事は、2004年6月20日発行のものです。
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