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戦後、四十五年以上も国内で発生のない狂犬病も、 ひとたび海外に出れば、恐ろしいが、ありふれたウイルス感染症の一つである。 グローバル化時代の現代、経済も文化も、あらゆる分野で 世界の動向が国内の状況を左右する。 今回は、「狂犬病」から見た「世界」と「日本」について考えてみた。 |
哺乳動物すべてが感染する「死の病い」 「このごろ、いろんな人から、狂犬病は、ほんとに大丈夫ですか、とたずねられることが増えて」 長年、狂犬病ウイルスの研究にたずさわってきた岐阜大学(農学部獣医公衆衛生学講座)教授の源宣之先生は、大学構内の研究室で、そう語りだした。 源先生によれば、現在、世界の二百近い国や地域で、狂犬病が発生していないとされるところは、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデン、イギリス、日本、太平洋上の島国ぐらい。世界の大多数、つまりアジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカなどの国や地域では、動物や人への感染報告がなされている。感染源は、欧米では、おもにキツネやアライグマなどの野生動物。アジアやアフリカなどでは、圧倒的に犬だ。なにしろ狂犬病ウイルスは、すべての哺乳動物に感染するために、身近なネコ、あるいはサル、夕闇のなかを飛びまわるコウモリからでも感染する。 だから、狂犬病フリーといわれる国でも、野生動物や移入動物、あるいは密輸動物から、突然、狂犬病が発生することもありえる。オーストラリアやイギリスでも、 コウモリから狂犬病類似(関連)ウイルス(リッサウイルス)が分離されている、と源先生は言う。 「オーストラリアでは一九九六年に、病気になったコウモリを治療してあげようとした女性が、そのコウモリにかまれて、狂犬病と同じような症状で亡くなっているんです」 くり返すが、狂犬病とは哺乳動物すべてに感染するきわめて恐ろしい病気だ。その形状が弾丸(ラブド)に似た狂犬病(ラブド)ウイルスにかかる動物にかまれたりすると、その唾液にひそむウイルスが傷口から体内に侵入して感染。潜伏期間は、ふつう、犬などの動物で数週間、人では約一〜三ヶ月(平均で約八十五日)。いったん発病すれば、治療法はなく、ほぼ百%死亡する。 狂犬病に対する知識や危機感がないと、よほどひどくかまれたのでないかぎり、何十日も前に、どこで、どんな動物にかまれたか、なんて、覚えている人は少ないでしょう、と源先生は言い、以前、ラオスからアメリカに移住した家族の女の子が、故国で犬にかまれてから七年後に発病して死亡したケースもあります、とつけ加えた。 さいわい日本では、戦後、国をあげて、おもな感染源となる犬への狂犬病ワクチン接種の普及と放浪犬の捕獲などに取り組んできたために、一九五六年(昭和三十二)以降、国内での狂犬病発生の報告はない。しかし、アジア諸国・諸地域では、毎年、狂犬病を発病する動物や人の報告が多数ある。
でも、タイでの、人的被害減少の要因は、狂犬病を疑われる犬にかまれた人へのワクチン接種による発病防止策が効果 をあげているからだ。感染源になりうる放浪犬は、首都バンコクでもたくさん町なかをさまよっていて、夜はことに危険、と源先生は指摘する。 |
東南アジアの状況をうかがうために、今回、お二人の獣医師にインタビューした。 その一人、新潟市内にある稲垣動物病院院長の稲垣仁先生は、一九九三年から二年間、青年海外協力隊員として、タイの北、インドシナ半島中央のラオス第二の都市サバナケットに滞在。犬やネコ、牛や山羊などの診療にたずさわった。その間、現地に多い狂犬病に関心をもち、調査の不十分なラオス国内の狂犬病資料を収集・分析して、同国はじめての、まとまった狂犬病報告書(ラオス語・英語・日本語)を作成。同国内外の関係諸機関に配布した。 「ラオスは、のどかな国で、野良牛がいっぱいいます。水牛なんか、昼間、あちこちで草を食べて、夜、帰ってくる。犬もほとんど全部放し飼いです」 もちろん、犬の狂犬病は、少なくない。稲垣先生があちこちの文献を調べたところでは、狂犬病の疑いで捕獲された犬の九十%以上が、実際にウイルス感染していた、とか。
そんな状況だったが、ふつうの庶民は、現金収入の道に乏しいから、飼い犬へ狂犬病ワクチンをうつ飼い主は数えるほど。たとえ、みずからがかまれて、医療機関にかけこんでも、発病を防ぐためのワクチン接種の負担に耐えかねて、五回はすべきワクチンを一、二回で断念しがち。おまけに病院の医療設備や衛生状態も不十分で、結局、自宅で病いにふせり、亡くなることも多いらしい。 「ときどき、うわさは聞くんですけど、実際、毎年、どのくらいの人が狂犬病で亡くなっているか、だれにもわからないんです」
杉田さんによれば、インドネシアでも一九九五年ごろから狂犬病対策に熱心で、人口密度の高いジャワ島やバリ島では、犬ばかりかネコ、さらにペットとして飼われているサルへのワクチン接種もすすみ、ほぼ狂犬病は淘汰された状態だという。「それ以外では、まだです。熱帯多雨林がおいしげる島々で、野生動物まで淘汰できるかどうかが、今後の鍵ですね」 ではフィリピンではどうか。 「フィリピンでも、二〇二〇年を目標に狂犬病撲滅をめざして、犬の集団予防接種活動を展開しつつあります。でも、一九九九年にフィリピン国内で狂犬病で死亡した人は三百九十八名。私が見学した病院では、一日に二百四十名ぐらいが狂犬病の治療にみえていました。その半数が子どもたちで…」 狂犬病を疑われる患者さんたちが収容されている病棟に入って、杉田さんは、 おどろいた。あるベッドには、点滴をうけている三歳ぐらいの女の子が寝かされていた。ベッドのまわりには、家族が何人もとりかこみ、その少女を、祈るような眼差しで見つめていた。「そのとなりのベッドにいた青年は、もう発病しかけなのか、光がまぶしそうに、膝をかかえてうずくまっていました。発病すると、その奥の、鍵のかかる病棟に移されるんです」 その病院で、杉田さんは、フィリピン国内のテレビで全国放送されたことのある、発病した患者さんがベッドにつながれ、もだえ苦しんでいるビデオを見せてもらい、ショックを受けた。「まるで、あの映画『エクソシスト』の一シーンを想わせるほど、差し迫ったものがありました…」 |
| 海外と国内での狂犬病感染の可能性 杉田さんが、東南アジア視察の旅に出たのは、「アジアをはじめ世界中には狂犬病ウイルス感染の恐れがいっぱいあるのに、日本にいると、そんな危機感はまったく 感じない。そのような認識の甘さを打ち破るため」と言う。先の源先生は、現地でのウイルス調査の合間に、タイの観光地へ行くと、「あ、かわいい」と、不用意に犬に近づく日本人観光客が少なくない、という。 実際、海外旅行中、犬などにかまれて、帰国後、あわてて医療機関にかけこむ日本人は少なくない。しかし、国内で四十五年以上も発生例がないため、必要な体制を備えているところはごくわずかである。 その数少ない、狂犬病予防・暴露後発病予防に力をそそいでいる医師の一人が東京都立駒込病院小児科・ワクチン外来医長の高山直秀先生だ。 「海外で狂犬病危険動物にかまれて来院する患者さんが現れたのは一九九〇年ごろです」以後、専門的に狂犬病医療に取り組んだ高山先生のもとをたずねる被害者は増え、 昨年で約八十名。総計三百名以上になったという。
「これまで、発病した人が出なかったのは、運がよかっただけで、実際、私たちの事後処置がよかったかどうかは分かりません」 たとえば、頭に近い顔などをかまれたら、一日でも対応が遅れたら、あぶないでしょうね。それなのに、実際に来院する患者さんたちは、狂犬病危険地域でかまれたことの危機感がなくて、と、高山先生は言う。 日本における狂犬病への危機感の乏しさは相当で、年間何千万にものぼる海外渡航者で、出発前に予防ワクチンを接種する人はごくわずか。高山先生によれば、日本国内で生産される人用狂犬病ワクチンは、年間、約二万本。 「PKOなどで海外に派遣される自衛隊員がもしその半数を使っているとすると、民間で使用可能なのは一万本。この病院でも、単純計算で、八十人×五本とすると、年間四百本。一万本といっても、暴露後発病予防にひとり五本使えば、わずか二千人分しかありません」。もし、国内で一件でも狂犬病が発生したら、狂牛病どころの騒ぎじゃない。大パニックになるでしょうね、と、高山先生は結んだ。 岐阜大学の源先生は、日本での過去の狂犬病流行とその沈静化の経緯をみても、狂犬病予防策には、犬へのワクチン予防の徹底と放浪犬の防止が大切だという。 「現在、国内に飼養されている犬の総数は、推定で一千万頭前後。でも、実際にワクチン接種しているのは四百数十万頭で、実質的に半分弱。ウイルス感染の予防には、七十%以上のワクチン接種が必要ですが…」
もし、天敵のいない彼らのあいだに狂犬病ウイルスが広まり、そこから飼い犬や放浪犬に感染していけば…と、源先生は言う。 「いま、北海道の獣医師たちのあいだで、小樽や室蘭、函館などの港に出入りするロシア船の船員たちが船内で飼っている犬が港周辺をうろついていているのが問題になっています。極東ロシアは未調査でよくわかりませんが、ロシア西部には狂犬病が多数発生していて、もし、日本に連れてこられる犬のなかに感染した犬がまぎれていれば、大変です」 とにかく、日本のまわりには狂犬病危険地域がたくさんある。自分の国のことばかり考えず、ひとつずつ、狂犬病フリーの国や地域を増やしていくことが、私たちに求められています、と。 |
| *この記事は、2002年5月15日発行のものです。 |
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